Minami-sanriku

Wednesday, April 13, 2011

Minami-sanriku : photo by F, Mar 2011, Miyagi

我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ

こんな歌を思わず口ずさんでしまいそうになる、そんな景色の海岸線だった。

地元の人は、ふつうのスーパーで売っているものを二周りくらい大きくしたようなお刺身のブロックを、毎日のように楽しむことができる生活を送っていたらしい。

4月1日、被災地から仙台へ戻る車両は、道路状況の確認も兼ね、がれきに埋もれた三陸海岸沿いを1時間ばかり走ってくれた。この日は快晴、風もなく海は穏やかな凪。この海があの映像で見た津波をおこし沿岸の町をすべて飲み込んだなんてとてもとても想像がつかなかった。

報道で(ことばは悪いが)一躍有名になった町ごとが流されたという場所だけでなく、この入り組んだリアス式の海岸線にある大小ほとんどすべての集落が破壊されていて、この美しい海の景色の手前には、その瓦礫が延々と、ほんとうに延々と続いていた。

Minami-sanriku : photo by F, April 2011, Miyagi

今回の日本帰省に伴い急きょ予定を調整し、被災地宮城県へ医療ボランティア(TMAT)に参加する機会を得た。

とにかく防寒だけはしっかり、との指示で山用ダウン装備と寝袋を背負い、東京から仙台までマイクロバスで5時間弱。夜明けの福島県内のパーキングエリアで原発はどっちの方向なんだろうと思いを馳せ、朝の6時に仙台本部のある病院に着いた。休む間もなく、そこからさらにグループに分かれて救急車で2時間、派遣されたのはあの南三陸町だった。

周辺では規模が一番大きい避難所で、仕事も大変だと云われていた南三陸のベイサイドアリーナ。立派な体育館施設のなかには当時1500人ほどの被災者たちが、玄関に入ってすぐのロビーから廊下まで、使える限りのすべての場所にダンボールでしきりを作って生活していた。

その時点では、救援物資が大方行き渡るようになっており、自衛隊が設置したシャワーや炊き出し、ディーゼル発電で多少の灯りもあり、スタジアムにあるような超大型のスクリーンが搬入され、テレビ中継を観ることもできた。また個人企業からの支援で日ごとにクレープや長崎ちゃんめんのスタンドが出没したりもしていた。ピグモかなにかの着ぐるみが子ども達と遊んでいる姿もちらりと見かけた。

最初の半日〜1日をすごしただけでは、その避難所生活の大変さがあまり伝わってこなかったのが本音だ。

着いて早速、診療活動の手伝いに入った。

ここで過ごすこと3日目の同じくボランティアのナースは、送りの時に『なにから話していいかわからない・・』とかすれた声でそう言った。

最初に、仙台にある組織本部で説明を受けた限りでは、もう現場はそれなりに落ち着いていて、ケガ人などへの対応はほとんどなくシビアなケースも稀で、思い描いている災害医療とは少しかけ離れているかもしれない、むしろ今は、慢性期疾患を持つ人々への定期薬の処方と管理がメイン、とのことだった。

それでも。

24時間態勢でTMATが設けた診療所には、とにかく朝から夕方まで、ひっきりなしに患者さんが訪れる。統計ではだいたい一日に150〜200人だったそうだ。医師が6〜7名にナースが6〜7名といった体制だっただろうか。薬は地方各県の薬剤師会が交代で現場に入っているようで、ふつうの薬局なみに一通りなんでもあった。外科系、内科系、小児科系の医師がけっこう揃っていたのは、患者さん達にとって随分心強かったんじゃないかと思う。

ナースは主にふつうの外来診療と同じことをしていれば良かったのだが、、とにかく現場が常にカオス状態。というのも、アリーナにはその当時で20チーム以上もの医療ボランティア団体が介入しており、超初期からこの避難所に陣地をとり診療を始めたというTMATは、中心的な存在で活動しているが故のオーガナイザー的な役割も担っていたからだと思う。一応、医療ボランティア団体の取りまとめを買って出て活動していた自治医科大のグルーブが、その本部を診療所内に設置していたが、玄関が同じ場所なので人やいろんな組織の出入りの多さといったら。診療スペースの奥には、簡易的な入院ベッドも20床ほど設置されており、主に介護の必要なお年寄りが寝泊まりしていた。その方たちのトイレなどへの通り道もまた一緒くたに存在していたため、もうてんやわんやだ。

あとは、薬品はおろか検査資材なども日々どんどん充実していっており、初期の、ほんとうにできることが限られていた(であろう)状態から、いわば『けっこうなんでもできちゃう』状態に進化しており、それに対するシステムの確立や物品の整理が追いつかず皆で右往左往、という大変さもあった。そんな中、他の避難所からこのアリーナまで救急搬送されてくるケースもけっこうあった。そういったケースは、結局また応急処置をした後に近辺の機能している病院へ再搬送される場合が多く二度手間的感覚も否めないものがあったのだが、ここでとりあえず一クッション置きたいくらい、地元の病院のERや病棟はものすごいことになっていたらしいので、アリーナへの搬送受け入れはそういうことも背景にあったのかもしれない。避難所のなかに、ほんとうに一個の病院が出来上がっていた感じで、それはそれで凄いことだと思った。

イスラエルの医療チームがフル設備(眼科・耳鼻科・婦人科など各専門科に加えICUやNICUまで)を搭載して南三陸に上陸したのも、ちょうどこの頃だった。レントゲンなどの検査が必要で、国境を越えてイスラエルに送られることになった患者さんもちらほら出、現場では、『ちょっとイスラエルまで行ってきます』という言付けも飛び交い始めた(笑)

当初、この東北の地のしかもお年寄り中心の避難所生活者達が、馴染みのない外国人医療スタッフに近づくのは結構勇気要るかもね、なんてことを話していた。ところがそのうち、自らイスラエル陣地に出向いて診療を受けて行った人が数人いるとの報告を受け、その行動力にみなで驚いたものだった。その後、イスラエルにかかるには一応日本側を通してという流れがほぼ暗黙の了解のように固まって行ったが、途中、制限をせず直接イスラエルに行きたい人にはどんどん行ってもらえばという意見も持ち上がった。が結局は、今後災害支援活動が撤退し地域に患者さんを戻して行かねばならない時のことを考えて、記録をとにかくしっかり統一して行おうという目標を掲げていた段階でもあったので、日本側が管理してというやり方は面倒でも妥当だったのだろうと思う。

・・ところで。せっかくだからと片言のヘブライ語を、隙を見ていきなり口にしてみてびっくりされたが、とても喜んでくれたようでこちらも嬉しかった。そのつながりで、通訳を兼ねて派遣されてきたイスラエル人と日本人のハーフの男の子を紹介された。話しをしてみると、なんとその子は、私がイスラエル時代から時々訪問しているブログの著者の息子さんだった。

このボランティアに参加して、日本各地・海外から駆けつけたナースや医師達、以前の職場で関わりのあった病院から派遣されたスタッフにも出会えたりと本当に貴重な経験をさせてもらえていると感じていたが、このイスラエルから来た男の子と話しが繋がった時には、ほんとうに今、世界中の隅々から、日本人外国人問わず誰もが、物理的もしくは精神的に、あらゆる手段でここへ集い寄り添って、何かを実行しているんだなあと思って気持ちが込み上げてきた。瓦礫だらけの南三陸の町に日々一本一本、電柱が増えていっているのを実際に見たときにも、そう感じた。『復興する気満々だな』って誰かが感心したようにつぶやいたのを聞いて、とても力が湧いた。

長くなったのでひとまず止めます。続きはあるのかないのか、いつになるかも未定ですが・・・